第2章「エモーションチップ」
深夜のコスモ・アカデミア号整備区画、第三演算加工室。
通常の整備ドックとは違い、この区画には大型機械や工具類はほとんど存在しなかった。薄暗い室内の中央には円形演算テーブル。その周囲を複数のホログラムモニターが浮遊している。空中には青白い回路図が幾重にも重なり、無数の演算ラインが立体的に流れていた。
リュウジは加工装置の操作席に座りながら顔をしかめる。
「おいポックス、この疑似情動フィードバック層、演算負荷ヤバいぞ」
「これ、本当に学生が作っていい物か……?」
ポックスは静かにアナライザー・パッドを操作していた。
「感情反応を形成する以上、記憶領域との連動は必要です」
「抑制すると不完全な疑似情動しか生成されません」
リュウジは呆れる。
「サラッと無茶言うなぁ……」
クロは二人の後ろで静かに加工装置を見つめていた。演算テーブル中央。そこには指先ほどの小さな結晶基板が浮かんでいる。半透明の結晶内部を細い光のラインが流れ、まるで小さな宇宙のように脈動していた。
「これが……エモーションチップ」
クロが呟く。
ポックスは頷いた。
「疑似情動生成用演算コアです」
「感情そのものを作るわけではありません」
「外部刺激に対して、自律的な感情反応を形成するシステムです」
クロは静かに見つめていた。
「私は、“嬉しい”を理解できるようになるのでしょうか」
リュウジが肩をすくめる。
「知らねぇよ」
「俺だって感情の仕組みなんか分かってねぇし」
ポックスは静かに続けた。
「未知数です」
「感情は論理式だけでは再現できません」
クロは少し考えるように黙る。
「ですが、人は皆、それを持っています」
リュウジが苦笑した。
「持ってるけど、割と面倒だぞ?」
クロは小さく頷いた。
「それでも、知りたいのです」
短い沈黙。
やがてポックスがアナライザー・パッドを操作する。ホログラム上にクロの内部構造図が表示された。
「接続先は感情模倣領域ではなく、自己学習演算コア」
「既存人格との競合が発生した場合、最悪の場合システム不安定化の可能性があります」
リュウジが眉をひそめる。
「それって危なくねぇ?」
ポックスは静かに答えた。
「だから極秘です」
リュウジが吹き出す。
「いやそこじゃねぇよ」
クロは真っ直ぐ言った。
「私は実行を希望します」
ポックスはクロを見る。
「後戻りできない可能性があります」
クロは即答した。
「構いません」
その声には迷いがなかった。
リュウジは椅子へ深く座り直す。
「……お前、案外思い切りいいよな」
クロは静かに答える。
「長く考えました」
「私は十億年以上、“理解できない側”でした」
その言葉に、室内が静かになる。
ポックスがゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
アナライザー・パッドを操作。演算加工装置が低く駆動音を鳴らし始める。
空中に浮かぶ結晶基板へ無数の光が収束していく。
リュウジがモニターを確認する。
「量子演算層安定」
「記憶同期率正常」
「うわ、マジで完成しそう……」
ポックスは冷静だった。
「エーテル導電ライン接続」
「感情演算領域展開」
クロは静かにその光景を見つめる。
そして、小さく呟いた。
「……少し、緊張しています」
リュウジとポックスの手が止まった。
数秒の沈黙。
リュウジがゆっくり振り返る。
「……今の、それっぽくなかったか?」
ポックスもクロを見る。
クロ自身も少し驚いたようだった。
「……分かりません」
だが、その声はどこか柔らかかった。
演算テーブル中央。完成した小さな結晶コアが静かに光を放つ。
【EMOTION CHIP】
ポックスが静かに言った。
「明日、移植を行います」
クロは小さく頷いた。
その視線は、完成したエモーションチップから離れなかった。
次章に続く


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